私塾のすすめ

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

人を二人並べて議論させてみると、違うところと同じところという観点で整理できてキャラが立つ。言ってることが新しい訳じゃないんだけど、並べてみるだけですうっと入ってくるところや明確にできたところが結構あった。

その立ち位置の違いについては書かないけど、ほかに印象に残ったところを。

P23

梅田さんの言葉でいう「存在のありよう」に関して、自分がその人に似ているかどうか、「あこがれるかどうか」が重要だと思っています。

「存在のありよう」に惹かれると言うことは、能力やスケール感とは別のものですよね。

P46

何かに対する強烈な「あこがれ」を体現し、猛烈な勢いで学び続けている先生が身近にいれば、その「あこがれ」に感化される。

今回印象に残ったのが「あこがれ」。にたところで「志向性」という言葉も登場した。「オレはこれが良いと思ってんだよね」「こいつはスゲエよ」的なこと。でも、あこがれっていうのは理屈ではなくて、"feel"であるところにパワーの源がある。理屈は上位レイヤーとして、言語として共有するために会話で登場するけれど、人と共有して意味があったり、人を突き動かすものはやっぱ理屈じゃなくて低レイヤーな感情。

そしてそれに裏付けられたことでないと、やっていけなくなるんじゃないか、という梅田もちおの主張。

P145

僕が「好きなことを貫く」ということを、最近、確信犯的に言っている理由というのは、「好きなことを貫くと幸せになれる」というような牧歌的な話じゃなくて、そういう競争環境の中で、自分の志向性というものに意識的にならないと、サバイバルできないのではないかという危機感があって、それを伝えたいと思うからです。

志向性っていっても、かなりメタな部分でその志向性をとらえないといけないと思う。具体的な作業とか仕事に志向性があると思ってしまうと、無理が出るし絶望につながる。自分が本当に喜びを感じるのは、その作業の結果に何が起こるからなのかもしれない。

「自分のやりたいことはこんなことじゃなーい!」ってなるのって、実は「やること」じゃなくて「やった結果、何がどうなること」っていう一つ二つ上の階層に志向性があることを見逃しがちだからなんじゃないかと思う。そこは考えないと、ほとんどの人は「好きを貫」けないし、あこがれにともなうパワーを発揮できないし、サバイバルもできない。「好きを貫け」っていうのも、そのレベルで理解されないというリスクがあって諸刃の剣のような気がしたです。