巧みに生きるか、善く生きるか
巧みに生きるか、善く生きるか
よく分からなくなってきた。
世の中、「善く生きること=巧みに生きること」になっているしくみがよいしくみなのではないかと思うけれど、実際そうではない。善く生きることが自己犠牲的な生き方になるシチュエーションは多くて、その自己犠牲が致命的な犠牲になって再起不能になる場合も多い。この場合、善く生きることを是としてもしくみとして機能しない。
中長期的にはプラスだと思ってはいるからアウトプットをしまくろうというのを今年のテーマにした。けれど、それは短期的に不器用で巧みではない可能性があると思う。ある領域の中ではその「巧みではない」部分が致命的なものにつながる場合があると。
extreameな生き方は、善い・巧み以前にそもそも「生きられない」可能性がある。「生きられる」程度に善く生きたい。
「利害関係がある組織の中では巧みに生きて、広い世間では善く生きる」のが一番巧みかつ善い生き方ではないかという仮説をとってみよう。